価値相対主義の行き着く、文脈の虚ろな世界では、"言論の地平"の設定をやめないことには、始動できない。
さもないと、思考を曲げてみたところで、着地する場所がついぞ見つからないからだ。
すると言説は、独白にしかなり得ない。
言葉であるのに、コミュニケーションへの契機を内在させず、純然たる表象として切り出すしかない。
基本・マナー・大前提であったところの、「自分の立つ文脈を、どうにか相手の文脈と交わらせるための所作」を放棄せざるを得ない。 (Tweetという建て付けは、近い)
一方そこで現れる"言葉"は、当然ながら前提を大いに含み、ある文脈の上に立つ。だが文脈自体について語り得ないわけだから、先の"言論の地平", "文脈の交換"を目指しても得るところはない。
それよりは、「文脈の記述はできないが、同時に相手の文脈の想定も取っ払うことで、自文脈にとってだけは忠実度を高めた言葉」として表象することが、最もロスレスで、 最もマシな言論ということになる。
皆の愛した"対話"は、もちろん、まだ幻ではない。
対話は良いものだ。
対話は、とても、素晴らしいものだ。
だがそれには、3-wayならぬ、30-way handshakingを要する。
インターネットで、座標の定まらない中で、どうやって"対話"が可能か。
それは全く分からない。いつか分かるのだろうか。
ただ、「文脈の交わり」に対するトラストレスな態度が初歩だと、今は考えている。